高松教会 村上 貴志
ネヘミヤ記 9章1~15節
主に命じられ、出エジプトの出来事を思い出し、立ち帰り・悔い改め・感謝の仮庵の祭りを行ったのが、ユダヤの暦の7月15~22日。その、わずか一日明けた後。24日の出来事。人々は、集まって、断食し、粗布をまとい、土を体に振りかけました。これは、最大級の悲しみや嘆きを現す行為です。
人々は、神さまの「昔から思い続けて下さっている愛」に向かい合い、自分たちの誤った・神さまから逸れた・離れた行動に、向かい合うのです。
その現実とは、様々な事情があるのだけれども、異邦人の伴侶を迎えた。生活のために、生きていくために、信仰を犠牲とした。神さまから、離れた。
そこに、どのくらいの、幸せが有ったのでしょう。 生きていくギリギリの生活?そうだと思います。 イスラエルの恵みは、全て上よりの賜り物。それを失った。「生きるために、神さまから離れる」それは、実は、「生きるために、死ぬ」と、言っているのと同じ。このことに、気づいているでしょうか?
自分の力や他者の力・国の力。わずかな物を得るために、わずかな休憩を得るために、不確定な癒しを得るために。神さまから目を背けてしまった。
「貧すれば貪する」の繰り返し。神さまから離れるのは、人の行動様式?いえ、それが、原罪なのです。
昔のイスラエルは、大きな辛さを感じて、「断食し、粗布をまとい、土を身に振りかけた」(1節)
「神さま、何とかして下さい」でも、神さまから離れた者が、どの面下げてそれを願うのでしょう。
いえ、願う事は、出来ません。赦されないと思います。だから、辛い思いを繰り返すだけ。
イスラエルには、これしか残されていなかった。
そのような民に、憐れみが。神さまからの慈しみが向けられたのです。
神さまの御業に、立って讃美をするのです。