高松教会 村上有子
コリントⅡ 6章1節~10節村
「今」を皆さんはどのように捉えておられるでしょうか? 「今」という時代を客観的に見るためには、やはり、聖書に戻ることであると、私は確信しています。二千年以上前の出来事が、今も生き生きと続く現在進行形の書物です。旧約聖書の記述が、今の私に語りかけてくる、生きている書が「聖書」です。
6章1節の括弧書きになっている箇所は、旧約聖書のイザヤ書の引用です。預言者イザヤに託された言葉は、神の民の回復でありますが、当時の捕囚からの帰還だけを意味しないのであります。「支配者らの僕とされた者」(イザヤ49:7)は、イエス・キリストを預言していると思われます。
「この僕」は人に蔑まれ、国々の忌むべき者とされ、苦しめられた。しかし、「この僕」が使命を果たし終えた時、王たちは立ち上がり、彼にひれ伏す。僕の働きは、闇の中にいた者たちに豊かな祝福を、繁栄、安全を約束する。主の祝福は、遠くにまでおよび、地の果てから人々が集まってきます。
このイザヤの預言は、コリントの人々に福音が届いた時の経験を「救いの日」で表わしているのと思われる。コリントの人々の苦しみからの叫びは、主に届き、主は応えてくださった。それゆえに、イザヤ書の「恵みの時・救いの日」は、コリントの地で、いや、全世界で成就しているのです。
「今や・今こそ」という言葉は、イエス様が私たちのところに来られ、そして、再び来られる時までの期間です。すなわち、「今」です。
今の時代は、「恵みの時代・救いが成就している時代」なのであります。
それゆえに、この恵みを無駄にしないために、パウロは、語り続けるのです。