高松教会 村上貴志
ネヘミヤ記 5章14~19節
「同胞への優しさ」それは、単なる親切では有りません。それは、神さまの定められた、セーフティーネット・律法の実践でも有りました。律法と言えば、「何か、制限をされたり」というイメージですが、本来は、神さまの愛を実践する為に、愛を享受するための大事な指針なのです。しかし、実際は、 「困った人のために、良かれ」と思っていたが、この世の風習に従い、神さまの愛には、則っていなかった。
神さまを離れ、地上に理に染まる事。その不信仰が、イスラエルを、国を滅ぼした後に、人をも滅ぼそうとしたのです。その事に気付いたネヘミヤは、ユダ・エルサレムの長官に任命された時、自身に対する徴税権を行使しませんでした。ザアカイのように、私服を肥やす事が無かった。いえ、ネヘミヤ一族の生活費さえ、民から集めようとはしなかった。塗炭の苦しみにあえぐ民に寄り添い、同胞を愛した。
それで、ネヘミヤは、窮乏したかというと、そうでは無かった。それどころか、城壁の工事の間、毎日、沢山の人に、食事を提供した。十日に一度は、あらゆる種類のぶどう酒をも、振る舞って慰労した。
もちろん、その費用を、税金として集める事は、無かった。ネヘミヤの行う良い業が、地上に現れると・社会の中で、悪事とならないために。
神さまに祈り求めた。「神よ、心に留めて下さい」と、願い続けた。根拠の無い願いではありません。 列王記上7章で、エリヤが、主の御用を為した時に。 エリヤは、烏に養われやもめに十分に養われた。
いえ、その様な者を、先に祝して下さっていた。
アブラハムやヨブのように、大きな恵みが既に与えられていた。持たざる者が、持たない者と共に苦しみに合う事が無いように、既に与えられていた。
祈りの中で、苦難を迎える人には、養いが、人の思いを越えた、先回りした祝福が、必ずあるのです。