高松教会 村上貴志
ネヘミヤ記 3章33~38節村
神さまへの奉仕。どうして障害が現れるのでしょう? 一生懸命に、「主のために」その思いで励んでいるのに、周りの反対がある。そのような経験や思い。どなたにも、有ったと思います。
ネヘミヤの城壁建設に対しても、有力者の数名が、腹を立て、妨害を仕掛けてきました。
サンバラトは、「怒り、激しく憤慨し、嘲笑った。」
占領されてての平和。それが壊される。反乱?とばっちりが来ないようにして欲しい(怒)。でも、しょせん無理な事だ(嘲笑)サンバラトもトビヤも、 自分の立場を守るのに必死なのです。「エルサレム。神の都」で、自分の力ばかりを見つめていたのです。
ネヘミヤは、祈ります。【エレミヤ書18:23】からの引用でしょうか?
神さまの御旨に耳を傾けない民には、再び、…。
「そんな風に、私のことを祈らないでください」そう思います?理由は、一杯あるのです。
聖書は、「気づけ!」と、私たちに語りかけます。 神さまに従うのか? 世に従うのか?
「理由が多いのは、理由が無いのと同じ。」この言葉は、阪神淡路地震の後、「心のケア」に尽くした医師 安克昌が、語りました。
「神さまが必ず解決して下さる事」を知っているから、(世に従うために)異なる理由を探る。それが、今の私たちの姿です。
神さまを知っているならば、世の力(抵抗)を思い浮かべて物怖じするのではなく、信頼するしかないのです。
私たちの事を、神さまが、見捨てられる事は、無いのです。教会に集う方。一人ひとりに、託された導きがある。私は、それを行い、そして、「他者の使命をも、尊重したい」そう思わされるのです。
神さまの完成される世を望んで。