高松教会 村上貴志
ネヘミヤ記 2章1~8節村
私たちの歩みの中では、「どうしても行わなくてはならない事」が、存在します。そのような事が、示されている時。果たして、私は、どのような行動をとるのでしょうか? 聖書には、「私が」と、立ち上がる人のことが沢山記録されています。神さまの声をいただいて、立ち上がる人が沢山いるのです。
しかし、私は、神さまの声を聴いていない!いえ、聞いていないのでは、無く、聞こえていない、聞く耳を持っていないのかも知れません。つまり、御旨を聞いていない。神さまの治められる世界観を想像していない・共有できていない。神さまが、なされた、赦しと贖いの御業によっての平安である事を、覚えていない。神さまは、「その独り子を遣わし、十字架に掛けられ甦らされた」にも関わらず。
「喉元過ぎれば、熱さ忘れる」救われた身・贖われた身であっても。祈る事。即ち神さまと会話する事が、許された状況であっても、今、大過なく過ごしているならば、それで良いと思うのです。
しかし、ネヘミヤは、そうでは無かった。彼は、捕囚の民。力も無く自由も無い。ネヘミヤ自身が、「一章で祈った神さまの治められる国・民」それを、思って行動したのです。何もできない憂い。ネヘミヤに出来る事は、諦める事。いえ、神さまに祈り、神さまからの恵みが、この異邦人の王を通して、与えられる事。(無茶な願いです)【箴言20章2節】を思えば、恐ろしい事。自分の命の問題。
ネヘミヤには、神さまに祈るしかなかった。
ネヘミヤは、神さまの声は、聴いていない。しかし、神さまの治められる世界を想像した。
いえ、自分がその中で生きている事を、確信していた。「必要な事は、神さまが、与えて下さる」
その信頼の祈りが、神さまの御手のうちにあったのです。