高松教会 村上貴志
エレミヤ書 1章4~8節
エレミヤが、18歳の時。主のお言葉が、与えられました。時代は、ヨシヤ王の治世。紀元前627年頃と言われています。イスラエルは、決して、「主と共に歩んでいる」とは、言えない状況でした。
事実、大国エジプトとアッシリア。そして、新興国のバビロンに囲まれて、朝貢政治を行っている。この時は、エジプトの庇護下に有りました。「神さまに頼る」のではなく、人の造った異教の神々が治める国・エジプトに国の命運を任せていたのです。
激動の時代でした。この時にエレミヤは、神さまからの声を聴いたのです。「人を頼るのか?神さまを頼るのか?力なのか?知識なのか? それとも、祈り続ける事なのか?」問われていたのです。
若いエレミヤは、無力だと思っていました。【6節】 決して、言葉が無いわけではありません。祈りの声は、上げているのですから。理由をつけた。言い訳した。務めが恐ろしくて、辞退した。いえ、逃げた。
導かれる方の存在を忘れていたのです。【マタイ16;23-24】 エレミヤは、自分の事を思っていた。 自分の事ばかりであった。使命が、怖い。命は、もちろん、惜しい。当然の思いであります。
「神さが共に」この大切な事に、目を向けていなければ、感じていなければ、一歩も動けない。
主は、エレミヤに語りかけられます。【1:7-8】
主が共におられる。これを、忘れると、神さまが相応しいと選ばれる人でさえ、恐れと無力に苛まれる。
結果が怖いのです。その先に有る、運命が。しかし、その先に有るのは、「天の御国だ」と、神さまは、宣言されるのです。エレミヤは、気づきます。「若い」それは、理由ではなく、言い訳であった事を。 そう、この聖書の箇所では、「召しに従う事の大切さ」を、教えているのです。
主が、共にいてくださる。主に御委ねして、歩む事の喜びを噛みしめます。