高松教会 村上貴志
ルカによる福音書1章67~80節
ザカリアには、子が無かった。彼は、下級祭司であり、もう既に年を重ねておりました。夫婦の願いは、「子どもを与えて下さい」で有った事でしょう。
「神さまは、どのような事でもおできになる。アブラムに起こった出来事、100歳のアブラム。90歳の妻サラ(創17:17)に、イサクが生まれた事。老齢の子。私たち夫婦は、その神さまの憐れみを知っております。信じております。他には、もう、何もいらない。(ザカリアとしては、一生に一度の神殿のお勤めは、果たしたのです。)この世の未練。神さま、私たち夫婦に、たった一つの願いを叶えて下さい。」 そう祈った事でしょう。
「神にできない事は何一つない」これは、ルカ1:37で、マリアに語った天使の言葉。マリアは、「お言葉通り、この身になりますように。」と、信じた。
ザカリアは、「何によって、わたしはそれを知る事ができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年を取っています。」(ルカ1:18) そう答えた。
あれほどまでに願っていた事が、叶えられると告げられたのに、ザカリアは、御使いの言葉を信じ、神さまに目を向けるのではなく、現状を、見つめてしまった。 「年を取りすぎている」
ザカリアは、人々の願いを神さまに取り次ぐ祭司。聖所において奉仕する中、天使の声を聞いた。そして(恐らく、アブラムの妻のように)笑った。
この子によって、ザカリアは、アブラハムから続く系図に名を遺したのに。神さまに繋がっている事を、証明したのに、その繋がりを、断ち切ろうとした。
罪の系図の中に取り込まれてしまっていた。
神さまは、このような離れた人たちを、憐れんで下さった。救い主のお誕生。その先ぶれ。ヨハネ。
私たちも、全ての人の救いの御計画の「先ぶれ」として、用いられているのです。