高松教会 村上貴志
コロサイの信徒への手紙 2章20節~3章11節
キリストに出会うまでは、神さまの愛を知るまでは、キリストの十字架の贖いに与るまでは、…。
私たちは、世の倣いに従って歩んでいました。生きている世界で、様々な誘惑に惹かれて歩んでいたのです。その一番は、「自分中心の思い」であります。
私たちは、いつも神さまの前に立っているはずなのに、神さまが、ここに、おられないかのように振る舞う。それは、とても、恥ずかしい・罪深い行動。
神さまが見ておられるのに、神さまを無視して、悪徳を行う。暴力・暴言であったり、貪りや傲慢、…。
「神さまの前で、その行いは、相応しいと思いますか? 神さまが、見ておられますよ。」このような忠告がなされても、「お前が、神なのか!」と、反発して、聞き入れることが無い。自分の周りの、神さまを信じない人や、木や石で造った像により頼む人と、同じような私たちを愛し尽くされている神さまを、見つめずに歩んでしまう。異なる神や権威に、目を向けてしまう。その方が、楽だから。理由をつけて自分を正当化できる。偽りの謙遜。一生懸命しているように思えて、何の価値も無い。残念な歩み。
キリストと共に復活させていただいたのに。…。
「すばらしい行い」キリストが共に居て下さって。 「私を、用いて下さった」自分主義であった、古い自分は、主の十字架と共に死んだのであります。
古いものが取り除かれ、隠されていた神さまの栄光が、私たち一人ひとりを通して、現されたのです。
それは、完成と言う事でしょうか? であるならば、もはや、世の倣いに従う必要は、無いのです。
「以前とは違う」のであります。私たちは、キリストと共に罪の世界に死に、そして、キリストの甦りに与り、永遠の命に与った者なのです。 (悪徳は)捨て去る。それは、生きると反対の言葉。私たちは、キリストと共に生きるのです