高松教会 村上貴志
コロサイの信徒への手紙 1章24~29節志
今年も、敬老会を自粛礼拝の中でありながらも迎える事ができ、感謝です。信徒の友の「日毎の糧」9月2日の聖書箇所には、【ゼカリヤ書8:4】が示されておりました。「万軍の主はこう言われる。エルサレムの広場には/再び、老爺、老婆が座すようになる/それぞれ、長寿のゆえに杖を手にして。」
神殿再建が進む中の新しいエルサレムの風景であります。神さまが、エルサレムの真ん中に住まれ、イスラエルの人々といつも共にいてくださると約束して下さっている。捕囚の民。杖を突きながらも、大きな困難を乗り越え、地上の平安の場に置かれているのです。「経験」喜びの経験・悲しみの経験・困難を乗り越えた経験・主が共に居て下さった経験。
それを、教会は、受け継いで行きたいと思うのです。
コロサイ書では、「キリストの苦難を覚え、キリストに倣い働く(それは、苦難を自らも受け入れるという事)、キリストの肢体に繋がる、神の家に仕える」 パウロの告白が記されております。苦難を受け入れるとは、サウロ時代の報いではありません。
他者のために。キリストの救いに与っていない人の為に・出会っていない人の為にも、キリストが、十字架で罪を担って下さった事・贖って下さった事。それを、知らない人たちのために、苦難を厭わずに働くのです。「キリストの苦しみの欠けたところ」 まだ、伝わっていない・知らない人たちのために。
神の国の喜びの宴席は、まだ、空いている。
【ルカ14章◆「大宴会」のたとえ】
パウロは、この広々とした神さまの国に、約束された民が来ないのであるのならば、まだ、知らない人・信じていない人をも、招こうとしたのです。【マタイ8:11】で、イエスさまが語られた通りに。既に救いの御業は、行われている。 あとは、伝えるだけ・信じるだけ。
キリストが内で働かれる事を、願うのです。