高松教会 村上貴志 ヨハネによる福音書 13章1~20節 ある教会の前を通ると、若い青年が「足を洗わせて下さい」と、教会に呼び込むと言うのです。私自身は、「洗足の木曜日か」と、思っていたのですが、 知らない人にとっては、不思議な出来事です。 彼は、聖書に記されている通りに、「弟子たちを愛されたイエスさまが、全ての民を愛しておられたイエスさまが、教えて下さった事」を、そのまま行おうとしていたのです。しかし、周りの人たちは、ペトロのように無理解でありました。 イエスさまは、「後で、わかるようになる」(7節)と、語られましたが、この「後」は、12節以降の解き証しではなく、16章13節以降の「真理の霊の到来の時に」と言う事です。とすると、信仰に導かれていない人たちは、理解することが、やはり困難で有った事なのです。 「なぜ、洗ってもらわなくてはならないのか?」 罪の意識・神さまから離れている事に気付いていない人にとっては、無意味な事で有ったのです。 一方的な出来事でした。でも、「キリスト教の神の愛は、上よりの一方的だ。(アガペー)」社会の授業でも学びました。世界的な常識です。主の模範に倣って、それを行う事は素晴らしい。でも、今日も、明日も、一月後も、一年後も、十年後も? 二十年後も、ずっと? やり続ける事が出来ますか? 神さまから、イエスさまから。永遠の愛を尽きぬ事の無い愛を注がれている私たちですが、どうも、私の器には、穴が開いているようです。一方的に行うといつの間にか、その愛は枯れてしまうようです。 「神さま、もっと、愛を!」 いえ。既に十二分に私たちには愛は注がれております。それでも、枯渇する憐れな者に、主は、声をかけて下さったのです。 「互いに」 私は、与え。 そして、いただくのです。 主の愛を!
2021
21Mar