高松教会 村上貴志 イザヤ書 55章1~5節 アドベント。二本目の蝋燭は、「御使い、平和」。 神さまより伝えられた、全てにおける「平和」を、信じます。では、この「平和」とは?いったい何の事なのでしょう?どのような状況が、「平和?」争いが無くなる事に繋がるのでしょう?様々な理由が有ると思います。人の数だけ、理由が有ると思います。 ただ、今の私たち。困難の中においても、命与えられている・保証されている平和であります。 もし、余裕の無い生活であるならば、酷く飢え渇いていたならば。自分では無く、子どもや老人が、飢えていたならば、選択肢は、二つに一つです。 ①捨てるか②戦って奪ってきて養うか。二つしか選択肢が示されない。「悲しみ」か「争い」か。その辛さを乗り越えるためには、命を懸けるしか無い。奪われる者も奪う者も、身体に、心に、痛みを持つ。 持つためにの痛み。では、持たない事は、痛みなのか?しかし、「物は無くとも、親しき友と過ごす時は、極上」であります。神は、語られます。「なぜ、糧にならぬもののために労するのか」(2節) 手に持つ事が出来る物ではなく、「良いもの」(2節)を下さいます。誰かと共に、愛する者と共に、いただく事のできる「主による平安」です。 第一コリント13章1節にこうあります。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。」どんなに素晴らしい言葉であっても、「愛が無ければ、騒音!」にすぎない。神さまは、「本当に必要なものを与えよう」と語られます。それは、「神さまに聞く事・神さまに求める事」すなわち「信仰による希望」であります。「魂に命を得よ」(3節)聞くだけで良い。来るだけで良い。「導く者(救い主)は、立てたから!」と教えられます。この福音(良き知らせ)の元に、全ての人は集まるのです。
2020
06Dec