高松教会 村 上 貴 志 マルコによる福音書16章1~33節 今日は、こども祝福式です。大きく成長した皆さんを見させていただき、喜びに思います。 「成長」と言う言葉。新共同訳聖書には、31回出てきます。旧約・新約どちらにおいても、「神さまの恵みの中で、神さまの祝福の中で、イエスさまによって、霊の導きによって」というような意味で用いられております。そして、ここでイエスさまは、「神の国は次のようなものである」と語られます。 「成長」(27節)という言葉に注目し「神の国に相応しいこどもたち」この事を考えたいと思うのです。 まず、ここで語られている事は、「人が土に種を蒔いて」です。「神さまが蒔いて下さる」のではなく、「人が蒔いた種」であります。「神さまが」と、はっきりとおっしゃって下されば、聞く者は、安心するのですが、そのような大きい事を語られると、相応しさにおいて自分たちを除外してしまう人も沢山いるのです。私たちは、欠けだらけですから。 イエスさまは、「人が」と、語られました。「ここで話を聴いている、皆さんの事ですよ。全ての人の事ですよ。恵まれているのは、祝福されているのは」希望の光へと導くのです。人の思う通りでは無く。 「比べなくても良い」のです。「神さまが、定められた」ので。それは、「今だけを見ないように」という事であります。相応しい賜物の実りが与えられている。相応しい時に、成長し・花開き・実りをつけるのです。周りと同じではないのです。 イエスさまは、語られるのです。「備えられているのは、神さまだ」と。(ルカ3:8でも同様) だから。「教会学校の子どもたちの成長」は、「イエスさまと共に・イエスさまが教えて下さった言葉と共に」歩まさせていただくのです。全ての子どもたちが、「主と共に・神の国のこども」として成長する事を願い、祝福の時を持ちたいと思います。
2020
13Sep