使徒言行録 24:1-9 高松教会 村上貴志 命をつけ狙われたパウロ。陰謀に対して驚くべき行動をとります。当時の世を治めていたローマ(異教徒)に、仲裁を求めるのです。いえ、それは、ローマへの宣教の始まりであったのかも知れません。 パウロは、いろいろな場所で弁明します。しかし、それは、「自分が正しい」とか「命乞い」と言う事では有りませんでした。パウロは、その機会に、「神さまの大いなる憐れみ・新しい約束・キリストの十字架の救い」を、語ったのです。パウロは、思っていました。「神さまは、必ず何とかして下さる」(「守って下さる」では、無かったのだと思います。例え、迫害を受ける道・茨の道であったとしても、必ず、パウロ自身、「納得できる・満足できる・喜びに思える」最後は、「神さま、ありがとうございます」なのです。自分の進む道。見ないで信じる幸いをパウロは、知っていたのです。) だから、弁明。命乞いしなくとも、信じている方を伝える事が、一番だと思っていたのです。たとえ苦難の道であっても、それをお捧げする事によって、全うする事によって、示される道なのです。 ローマの信徒への手紙5章(2~4節)は伝えます。 「苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を」 その歩みが、「キリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りに」と、されるのです。 誰のお蔭?「神さまの!」すると、2-3節の告白は、こう変わります。「神さまのお蔭で、私どもは十分に平和を享受しております。また、救い主イエス・キリスト-の十字架の救いの御業によって、私たちは罪の縄目から解き放たれ、神さまの元に集められました。私どもは、あらゆる面で、至るところで、このことを認めて讃美し感謝いたします」私たちの喜びの叫びは、その様な祈りとなるのです。
2020
07Jun