使徒言行録 2:17-21
高松教会 村上貴志
ペトロの語る「終わりの時」明らかにされている事は、「キリストの再臨」であります。その時、「すべての人に」と、語られます。この宣言。ペトロが聖霊に導かれて初めて伝えた事ではなく、ヨエル書3章で、既に語られている約束・預言でした。この時には、「イナゴの襲来」 神の審判の到来だと思われていました。生きる糧が、全て奪われるような状況です。民がその事を受け止めるように、自らの歩みを顧みて、嘆き悔い改めるように勧めたのです。ただ、ヨエルは、悔い改めの儀式を勧めたのではありません。儀式では・だけでは、の解決にもならないのです。同じ事を繰り返していくだけですから。ヨエルは、「神さまの憐れみ以外には、救いは無い」という、終末論的な救いを、語ったのです。 ペトロは、そんな状況が「今だ」と、聖霊によって導かれ・知らされ、語ります。恵みは、溢れている。しかし、それが、神さまを忘れさせてしまう。 出来る人は良いのです。では、出来ない人は?小さな者たちは?希望を失うだけでしょうか? 「太陽は・月は」絶望と不吉。「出来ない人」への審判・報いなのでしょうか? いえ、違います。神さまは、努力を求められたのではないのです。もちろん、お認めにはなられたと思います。でも、必死に努力しても、出来ない民を憐れまれて、新しい約束・計画を地上に与えられたのです。それは、難しい事であり、簡単な事であります。「主の名を呼び求める」こと。 今までの努力や成果・地位・順列などは、無益となります。頑張った人には、とても惜しい事です。 神さまは、伝えられるのです。「良く頑張った。いろんなことを一杯頑張った」しかし、たった一つの大切な事を知らせよう。「主の名を呼び求める者は皆、救われる」