使徒言行録 23:23-35
高松教会 村上貴志
日本では、「この世・あの世」という考え方が有ります。信仰的に「救い」の無い世界では、「あの世」とは、地獄を指します。それに対して、救いのある信仰では、「あの世・死後の世界」は、天国であります。神さまと共に歩む喜びの世界であります。そして、救いに至らない世界が、「この・世」です。そこでは、神さまから離れさせようとする力が働きます。 聖書の世界観の中にも、その事は、交錯します。 パウロは、伝えます。「イエス・キリストの救い。全ての人に対する神さまからの救い」この喜びを、信仰者が受けとめる事が出来ないのであります。 立派に過ごした自分たちがまず救われて、そして、順番に。この世の思いに染まっているのです。 それに対して、神さまを知らないローマの世界が、公平な態度を示します。神を知らない人たちが、ユダヤ人たちより、素晴らしい行動をとっているのです。大きな危険が有れば、全力で守る。危険が去れば、全速力で逃げる。「神さまは、頼る民に対してこうしてあげたかった」信仰の無いローマ兵を通して、それを表します。どちらが、神さまの造られた人の姿なのでしょうか?神さまの愛を実践する為の掟から憎しみや蔑みを発するのではなく、「愛と憐れみ」を、生みだす事こそが、神さまの教えて下さった事なのです。「気短に怒るな。怒りは愚者の胸に宿るもの。」(コヘレト7:9)千年かけて審議する事を、一日で決着させようとするのではなく、一日で結審する事をも、千年かけて待ち続ける事が大事なのです。神さまを知らない人が離れた人が、神さまに立ち返る時まで。 この事を忘れさせるのが、「世の企み」であります。人は、そこに取り込まれている。 そこから導き出して下さったのが、パウロの伝えるイエスさまの十字架の救いなのです。