使徒言行録 22:30-23:11
高松教会 村上貴志
「信仰」それを、胸の中に抱きながらも、世では・私たちの中には、諍(いさか)いが生じます。いえ、「信仰」それを持っている故に、生じる事が有るのです。 パウロが、人々に伝えようとしたことは、「信仰」なのか?「異端・誤った教え」なのか? イスラエルの信仰的指導者たちは、紛糾します。 しかし、それを見ていた千人隊長は、…?!? 世には、伝わっていないのです。(パウロは、後に明らかにさるが、問題となる事は一切ないのです。) 千人隊長は、不思議に思いました。「何故、同じ神さまを信仰する人たちが、憎しみ合うのか?」 「信仰」とは、「生きている自分たちの希望ではないのか?生きるための信仰ではないのか?多神教の信仰なら、異なる自分に合う神を見つければ良いだけではないか?」と、思ったのかも知れません。 同じ一つの神を信じる、パウロと最高法院のメンバーのやり取りに注目するのです。 パウロは、「良心に従って神の前で生きてきました」と証言します。(ただ、その事が、相応しいかどうか?) 「私が、良い・正しい」と思っている事が、神さまや周りの人たちが、「相応しい」と思われるかどうかは別物であります。著者のルカは、問いかけます。 大祭司アナニアも、歴史の中では、不正を働き民衆に殺された人物でした。「白く塗った壁」でした。 「神さまの思いから離れた世界で、神さまの正しさを求める」事は、なんと難しい事でしょうか? では、神の義は、どこにあるのでしょうか? 憎しみと争いの満ちる世に、有るのでしょうか?パウロは、「死者が復活するという望みを抱いている」と、語ります。十字架に掛けられ、死にて葬られ、そして、三日目に死人の中より甦られたお方。イエス・キリストの救いの御業にのみ・教えて下さった事にのみ、希望が有ると語ったのです。