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使徒言行録 21章27-36節
高松教会 村上貴志
「叫びながら」①【マタイ3章】荒れ野で叫ぶ人 ②【マルコ10章】「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」異邦人の女性 ③【マタイ15章】 目が見えるように求める男性 ④【マタイ25章】 「真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声」私たちに、呼びかける声。
地上の静寂を突き破るような大きな声で叫ばれる。「知ってもらわなくては困る。明らかにしなくてはならない」願いと福音が大きな声となるのです。
ところが、ここでは、「その男を殺してしまえ」と酷い言葉を、叫びながらついて来る人がおりました。
「その男」バラバのような、犯罪人ではない。
「悔い改めてイエスさまを。全ての人の救いを。神の国を信じなさい!」と宣べ伝えているパウロに対してでした。叫ぶ人は、酷い人だと思うのですが、 実は、熱心に神さまを信じている人でありました。
信じているのに、そんな事が実行できるのか?
サウロと呼ばれていた頃のパウロは、していました。
ローマ兵に守られても、諦めません。イエスさまの時と同じであります。時に、信仰を持つ人たちが、このような極端な方向に走るのです。「神さまのために」この思いが、思い込みが、そうさせるのです。
「 気短に怒るな。怒りは愚者の胸に宿るもの。 」
(コヘレトの言葉7:9)神さまから離れた、愚者にならないようにしなくてはなりません。怒りに任せると、「神さまが憐れまれた人と共に歩む人」でさえ、「まことの愛を神の愛を実践している人」でさえ、憎く思えてしまう。神さまから離れた罪人の姿です。
「イエスを十字架に・あいつ(パウロ)に天誅を」平気でそう叫びながらついていってしまう。
パウロの歩みを通して現れたこの罪の姿。 この神さまから離れた人たちのために、イエスさまは、十字架に架かって下さったのです。