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使徒言行録 19章1-10節
高松教会 村上貴志
パウロは、不思議な質問を信仰者たちに致します。「聖霊を受けましたか?」
旧約的な生活からすると、指導者たちに、「神の霊が下る・導く。特別な存在に与えられる力」こと。普通の人は、受けたとは思っていません。
出会った信者たちは、皆「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」(2節)と、答えます。「ヨハネの洗礼・悔い改めの洗礼・水の洗礼」は、受けましたが、「聖霊によって」は、受けておりませんと、語るのです。
「聖霊によって」これは、コリントⅠ12:3「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と言う言葉に繋がります。つまり、この導きが無ければ、イエスさまへの信仰へとは繋がらないのです。
では、私たちは、どうでしょうか?「聖霊を受けましたか?」こう質問された時、どう応えるのか?
もちろん、「はい」と、答えることでしょう。
そうでなければ、「イエスさまを救い主だ」と、告白できないのですから。ただ、「イエス=キリスト」ということについて。乱暴な言い方をすれば、常識です。「知っているけれど、信じてはいない」人は、たくさんいます。それを思うと、「信じると答えた人全てに聖霊の導きが有った」と言う事です。
「火の洗礼」金や銀が精錬されるように、(神さまから離れる)罪と言う不純物を取り除いて下さる。
私たちもイエスさまが共にいて下さると感じる経験を持ち、心に平安をいただいたのです。
そう感じる事が、聖霊による洗礼だと思うのです。
パウロは、「~であれ、~であれ。全て主のため」という表現を良く使います。
それは、私たちのため。私の喜びが、主の喜び。
そう感じる事が、聖霊の助けなのです。