使徒言行録 17章16-34節
高松教会 村上貴志
アテネでの信仰の問題は、多神教の信仰でした。
ギリシャ神話を中心として、ありとあらゆる神々が存在したのです。(日本も似ています)
そもそも、なぜ、多数の神々を必要とするのか?
助けてくれる存在ならば何でもよかった。
都合の良い神を求め・探しました。
周りの人が知らない、御利益がある神々。
余裕のある金持ちたちは「自慢できる神々」を求めました。
哲学を通して語る事が出来れば、なお良い。新しい神の話題は、暇つぶしにもってこいでした。
パウロの伝える信仰についても、そのような思いが働きました。
アテネの人々は、興味を持ちパウロの話に聞き入ります。
だが、自分たちに都合の良い神を信じようとする人たちにとって、
パウロの語る「全てをお造りなられ・全てを統べられる神さまは、
神さまから離れた人の為に・その人々を救うために、
神の独り子がその身代わりとして十字架につけられ、赦しを現すために甦らされた」
この信仰が理解できませんでした。
「人の為に、神さまが」パウロの語る、
「キリストの十字架による神の救い」が、判らなかったのです。
パウロは、裕福で余裕のある人たちに、その恵みがどこから来ているかを伝えます。
「神さまは、今、ここにおられる全ての方と共におられる」
ギリシャの詩人アラトスの神讃歌を引用します。【29節】
無知な時代・神さまを知らない時代について、神さまは、大目に見て下さった。
「知られざる神」を。
「もっと、大きな救いの喜び、イエス・キリストの御業を教えよう。」と、語ります。
そして、信じてアテネの教会を指導する人たちが、与えられます。
ディオニシオ(酒・快楽)。
この人が、司教・神の器とされるのです。
そして、その神の器は、私たちでもあるのです。
「知られざる?」
いえ、私の内におられる、神さまをお伝えしたいと思います。