高松教会 村上貴志
使徒言行録 17章10-15節
パウロの宣教旅行。
ベレアでも喜んで迎えられました。
救いの御業の話を聞き、旧約聖書に記されている事を、熱心に調べました。
聖書に向かい合いました。
一つ一つ、神さまが約束して下さった事が実現した事を、確認して喜んだのです。
その喜びが、自分にも与えられた事を、知る事となるからです。
そして、この事は、私たちの信仰生活にも繋がっております。
「自分にも与えられた」昔聞いた証しが、喜びが、時を経て、自分の身にも起こっている。
祈って求めている人には、与えられるのです。
神さまは、喜びを独り占めさせられない。全ての人に分け与えられるのです。
調べなければ。聞かなければ。求めなければ。
神さまとの対話。祈りは、始まらないのです。
熱心に求めるその姿。
異邦人たちも信じ始めました。
「一つの神に」最初は分からなかったかもしれません。
しかし、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ15:16今年の年間聖句)。
伝える者の選びだけでは無く、喜ぶ者をも神さまは選ばれるのです。
けれども喜べず騒ぎを起こす者もおります。
「全ての人に」この良き知らせを知らなかったのかも知れません。
罪(神から離れた姿)に引かれます。
べレアの人たちは、戦わずに逃します。
主の姿を熱心に求めた者は、罪の世界に引かれないのです。
なぜなら、そこから引き戻すために、その世界から取り戻していただくために、キリストの命が捧げられたからです。
この尊い御業を思い出す事が、知る事が踏みとどまる大きな力となるのです。
ウカッとしていたら、引っ張られていくかもしれません。
だから、わたしたちも、熱心に調べます。
聖書を。兄弟姉妹がたの証を。
主の平安が、満ち溢れている喜びを、確認するのです。