マタイによる福音書 3章13-17節
高松教会 村上貴志
イエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられます。
「なぜ、罪なきお方が、悔い改めの洗礼を受けられたのか?」
大きな疑問です。
ヨハネは、イエスさまの負われた役割を深く理解しておりました。
「このお方は、神さまの御子・独り子であり、この方が、十字架に架かられ、人が神さまから離れたと言う罪を贖われる。
この方の命を持って、私たちの滅びに至る命が、永遠の命・神さまと繋がれた命に戻される。
インマヌエル・神は我々と共におられる。
この喜びが、与えられる。神さまの御業が、現される。」と言う事を。
知るヨハネにとって、非常に恐れ多いことでした。
この戸惑い・辞退したい思い。
ヨハネだけでなく、信仰者の思いでもあります。
「なぜ、私のような者のために、主が十字架について下さったのか?」
「神さまの愛ゆえに」であるならば、天地を創造されたように、私たちの思いを、
「神さまの御意志で、変えられたら良いのに。全ての民よ、神に従う者と成れ!」
そう、命じて下されば良かったのに。
これは、「神さまのため」では有りません。
「私たちのために」だからです。
「私たちが知ることが出来る形で、私たちの住む世の理で・姿で、十字架の救いにつなげて下さっている」のです。
遠い御国での幻では有りません。神さまの呟きでは無いのです。
神さまの力ある言葉が、私たちの住むこの世界で、現されるのです。
「私たちのために」この事が、神さまにとって必要であり、成されたのです。
神さまの前に相応しくない者(私)にとって、想像もつかない恵みであります。
辞退したいような事であります。
しかし、イエスさまは、語られるのです。
「止めないでほしい。
神の愛・神さまの憐れみを、受けなさい」と、語られるのです。
救いの第一歩に与る事が、私たちに相応しいことなのです。