イザヤ書 35章1-10節
高松教会 村上貴志
「荒れ野に水は湧きて」讃詠558番に、この歌詞が使われております。
ゆっくりとしたこの曲。待つ事の後の喜びを教えてくれます。
「荒野に水は湧きて」これで、今の危機は乗り切りました。
しかし、ここで終わりでは有りません。
「潤い無き地は、水の源と変わらん」神さまは、その先までを望み見ておられる。
大いなる喜びは、とこしえの喜びへと変えられるのです。
イザヤの時代。
周囲の大国から圧迫を受けました。
エルサレムは包囲され、食料が無い。糞尿を食べる。
そして、聖書の歴史の中では、最も忌まわしい出来事も繰り返されたことでしょう。
【列王下 6:29】
この悲惨な状況からの、解放が。
敵は、追い払われる!救いが、宣べ伝えられたのです。
神さまの到来が実現する。
その前段階としての自然の回復がある。
苦しい悲しい時代からの解放。
それは、神さまから離れた時代からの回復でした。
人々は、唯一の神さまに再び目を向けたのです。
異国の力や神々から目を反らし。
イスラエルは、信仰を取り戻したのです。
しかし、それ以上の喜びがあった。
以前に囚われた人々が、帰ってくる。
神さまは、共に歩む者に、大いなる祝福を与えて下さるのです。
そして、その恵みの中で「シャロンの輝き」を、加えて下さいます。
(讃美歌Ⅱ192番下欄)「シャロンの花は、イエスの愛称」
体だけでは無く、心にも、命の水を与えて下さる約束がなされていたのです。
実は、包囲されたエルサレム。
国土を失い・畑を失い・食料を失い。
でも、水は、水路を通して供給されていたのです。
本当は、喉は渇いていない。
渇いていたのは、心であったのです。
日毎の糧だけではなく「救い主をお与えになられた」
そこに、神さまの元への「大路」が、敷かれるのです。