使徒言行録 17章1-9節
高松教会 村上貴志
パウロたちの伝道旅行。
フィリピとテサロニケ、対応が大きく異なります。
先には、ローマ市民という特権階級である事を明らかにし収めます。
しかし、後では、騒ぎが起こった時、沈黙し展開を待つ。
テサロニケには、神さまを知る信仰者がおりました。
しかし、新しい救いの約束を受け入れていない。
「三回の安息日にわたって」語り合いました。
「古い約束」を否定するのではなく、その約束を引用して語りました。
熱心なテサロニケの信徒たちは、パウロたちを激しく攻撃します。
でも、パウロたちは、忍耐します。(イエスさまに出会っていたから)
理不尽な事でも、パウロは、倣っただけなのです。
古い約束に記されていた、「苦難の僕」の姿に。
その驚きの忍耐から、共通した意識・知識。
テサロニケにもパウロにも、示されているイエスさまの御業が広がるのです。
パウロは、讃美歌138番の歌詞のような事を思った事でしょう。
パウロの懐には、相手を誅する短剣では無く、救いを広げられるキリストの十字架の贖いが、入っていました。
手荒な真似では無く、「共に祈ろう。御言葉に聞いて祈ろう。
神さまの御旨に一致するまで祈ろう。
議論を中断して、まず、神さまに立ち返ろう」としたのです。
すると、周りで話を聞いていた、異邦人たちが、神さまからの恵みを受け取り、信仰に入ります。
そこで、信仰者が新しく起こされたのであります。
救いの広がりが増し加わったのであります。
感謝の出来事を、パウロは、感じるのであります。
必要な場所では、喜びは、増し加わるのです。
聞かない権利ある人よりも、求めている小さな者の所に、神さまの祝福は、与えられていくのです。
私たちの目の前にも、その主の御姿は、いつも、現されているのです。