使徒言行録 15章1-21節
高松教会 村上貴志
「割礼」は、創世記17章で定められた「約束の民」としての、「しるし」でした。
神さまが、定められた憐れみでした。
「律法を守りきる事の出来ない人」への「神さまの憐れみ」
すなわち、「律法」と「割礼」は、一つであったのです。
この事を、ユダヤ人たちは、大切な事としました。
人が定めたのです。
「神さまの決めた事」を、「人の決め事」した時、神さまに対する感謝は失われました。
「神さまの憐れみ」から目を離す事となってしまうのです。
キリストの十字架と甦りにより、救われながら・受け入れながらも、「古い約束」にこだわる人がいたのです。
そして、異邦人教会で、割礼を強要するのです。
「救われない」の発言。
イエスさまの十字架の業は、どこに行ったのでしょうか?
故に、パウロたちは、エルサレム教会へと向かいます。
「私たちの為に流された主の血潮が、虚しいものとされないように。」主の十字架の贖いこそが、神さまの救いの御業である事を確認するために。
不信仰な地域と言われたフェニキア・サマリアで は、救いの御業が広がった事が共に喜ばれます。
「人の決め事」を、気にせず、「神さまの決めた事」ユダヤ教徒以外の救いを信じ、喜んだのです。
エルサレム教会では、議論されます。
シメオン・ヤコブを通しての修辞法で語ります。
①使徒10章 ペトロ(シメオン)の異邦人伝道・ルカ2章 幼子イエスに対するシメオンの言葉
②主の兄弟ヤコブ。アモス書9章11-12節の「残った人々」(エドム人⇒ヤコブの子イシュマエルの子孫)
「神さまの愛と憐れみを知る事」の為に定められた「律法・割礼」を人の決め事とし、「神さまの愛の業」から遠ざけてはならないのです。
そして、知るのです。「神さまの決め事」を。
救いは、十字架のみにあることを。