使徒言行録 13章42-52節
高松教会 村上貴志
先週の聖書。
最後の41節には、ハバクク書1:55からの引用が有りました。
主の救いの御業を侮る者に対する裁き。滅び。
懲らしめや戒めを与えると言うのではありません。
「放置する」と言う事です。
従わない者には、「思う通りにするが良い」と、語るのです。
「それが、民の願いであるのなら」
しかし、神さまの守り・祝福から出て行くのならば、そこには、「何も無い」
そして、神さまが手にされている豊かさは、次の民に。
最初に選ばれた民ではないが、決して相応しいと思ったわけではないが、「激しく求める民に、移す」のです。
「求める者・移された者」
マルコ7章「シリア・フェニキアの女の信仰」マタイ7章「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。」に記されている通りです。
そして、「取り去られた者・拒否した者」
ルカ16章「金持ちとラザロ」が、思い浮かびます。
大きな淵がある。隔てられている。
「もはや、戻ることも、改める事も、叶わない」と、信仰の父・アブラハムは語ります。
なぜならば、その人は、「悔い改めて福音を信じる」事が無いからです。
預言者の言葉を信じない者は、「約束された救い主」に出会っても、信じる事は無い。これからも、…。
神さまの大きな愛は、大きな力は、救いの御業は、聞く者に、求める者に、移されたのです。
そして、その全ての人への喜びが、真である事を信じれば、
「次の安息日にも、話してださい。連れてきますから。」そう、求めさせたのです。
福音・良き知らせは、どちらに動いて行くのでしょう。
パウロは、厳しい言葉を送りますが、決して、見捨てている訳では有りません。
言葉を残します。それは、もう一度確認したいと思っているのです。
パウロを受け入れて下さった方を、伝えるために。
あえて「向うにいかせてもらう」のです。