ヨハネの黙示録21章1〜7
片岡賢蔵神学生(東京神学大学 院1年 夏期伝道実習)
聖書の最後にあって、特にヨハネの黙示録の21章は神による希望のフィナーレです。
終わりの日、神は再び天と地とを創造されます。
この新しい天と地とで神は、わざわざ人の目から涙をことごとく拭い取るという手のかかる行為をなされます。
人間に涙を流させなくするのが、神の願う希望ではなく、神が涙を拭ってくださるというのです。神は、こんなにも人と関わりたいのです。
それでも、人間は、理想の終わり方を、自ら想像するユートピアに向かうのが幸せ、と考えてしまいがちです。
ところが、黙示録はそんな人間の幻想を打ち砕きます。
新しい天だけでなく、新しい地をも創造されるのです。
神は、もう天だけでよい、とは言われません。神は、人の涙を消し去ってしまうのではなく、拭うことで、人の死を追い払おうとされる。
この地に痛みがあるのを知ってくださって、取り去ってくださる。
だから、もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もないのです。
黙示録は、教会に大きな困難が訪れる中、福音が封じられようとする中、ひとりの預言者を通して、終わりの日の希望を見せています。
それは眠りについたキリスト者たちの復活の姿でした。
キリストを信じて眠りについたキリスト者たちの群れは、聖なる新しいエルサレムとして、夫のために着飾った花嫁のように、天から下って来るのです。
これは、イザヤ書に書かれた「花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる。」
【イザヤ62.5】ことの成就を高らかに宣言するものです。
幸福な結婚のように、神と人とが結び合わされるという私たち自身の復活が、十字架の上で死に、復活されたキリストによって、今、私たちの希望とされています。
キリストは、すでに来られ、やがて来られ、そして礼拝を捧げる今、おられるからです。