使徒言行録 7章54節-8章3節
高松教会 村上貴志
ステファノは、間もなく石打の刑・死刑とされる事を感じながらも、最高議会で大胆に主の福音を語りました。
幕屋での大祭司だけの祈りは、イエスさまの十字架の御業によって、全ての人へと開かれる。「神殿は、三日で建てなおされた」のです。
その神殿・祈りの場は、信仰者一人一人の内にあるのです。
祭司や律法学者たちは、激しく怒りました。
律法を守っていると語っている賢者たちでさえ、虐げられれば狂うのです(コヘレト7:8)
彼らは、「①自分たちの礼拝が正しくないと言われた②今の神殿での礼拝が否定された③イエスさまの言葉が成就した」
その事を、信じたくありませんでした。
故に、怒った。
それに対して、ステファノの心情は、穏やかでした。
なぜなら、その発言は、世の思いでは無く、聖霊に導かれた主の思いで有ったからです。
さらに彼は、大胆な言葉を続けます。
「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」(56節)
詩編110編からの引用と言われています。
しかし、詩編では、神さまの右の座につく方を見ています。
ステファノは、「そのお方が、立っておられる。働かれている」と、語ったのです。
マタイ17章の山上の変貌に記されている、上よりの声「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」
働かれているお方の、声を聞くことこそが、神さまの御意志である事を、伝えたのです。
ステファノは、石を投げる人たちが、赦されるように願うのです。
「私の霊をお受けください」ステファノの命は、彼らの為に献げられたのです。
それは、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)ステファノは、イエスさまに倣ったのです。
従って、ステファノの命は、奪い取られたのではないのです。
「主を仰ぎ見る」とは、このような事なのかもしれません。