使徒言行録 3章11-26節
高松教会 村上貴志
ペトロに癒された青年。神殿で癒されなかった人が癒されました。
神さまを忘れ、人の力をもてはやします。有りがちな事です。
私たちの信仰生活においても、神さまを忘れて、救われた事を忘れた歩みを送る事が、度々です。
神さまから離れてしまう事は、多いのです。
教会では、神さまから離れる事を「罪」と呼びます。
最初のヒトは、神さまの祝福の中に有りながらも、知識の実を求めてしまう。
神さまから離れようとするのです。
その先の出来事は、皆さんの御存知の通りです。
恵みと祝福から離れていく。
それを、自分でかき集めなくてはなりません。
周りに偽り、自分をもだまし、誰かを犠牲にしないといけない歩みに陥ってしまいます。
ペトロの前に、いたユダヤ人たちもそうでした。
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、私たちの先祖の神」そう祈りながらも、
その神さまが与えて下さったイエスさまを、犯罪者のように扱い十字架にかけ、
人を殺めた犯罪者バラバの罪を赦すように求めました。
人の定める「罪」が、いかに、虚ろなものかが、わかるのです。
しかし、神さまは、私たちをその御手の中に置き続けて下さいます。
神さまから離れる者を、その独り子の命をもって贖って下さり、
神さまから離れた罪の世界に住む者から、呼び戻して下り、滅びより取り戻して下さった。
離れた者が苦しむことがないように、その重荷を自らの独り子に負わせられた。
道は、開かれた。障害は、取り除かれた。
これこそが、「慰めの時」であります。
神さまから離れた故の心配が、イエスさまの執り成しの御業によって、再び神さまに繋がれた。
「新しくなるまで」終末の時に全ての人が、再び神さまとの交わりに加えられるまで、
主の御栄光は現し続けられるのです。