使徒言行録 3章1-10節
村上貴志
美しい門にいた男性。彼が、抱いていた思いとは、どのようなものなのでしょうか?
生まれてこのかた、ずっと足が不自由。
自らの罪のせいではありません。
「両親先祖の罪の為でしょうか?」であるならば、何と、辛い歩みだったことでしょう。
(参照;ヨハネ9章◆生まれつきの盲人を癒す)
それは、まるで、ヨブ記3章に記されているような思いだったかもしれません。
ヨブは、祝された人でありましたが、大きな災いで家族を失った時に、こう呟いてしまいました。
「自分の生まれた日を呪って、言った。わたしの生まれた日は消えうせよ。
なぜ、わたしは母の胎にいるうちに/死んでしまわなかったのか。せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。」
彼は、そう思わなかったのでしょうか? 思わない訳は、有りません。「神さまは、どうして」
しかし、彼が、より頼む事が出来るのは、この神殿におられる、全てを治められる方だけなのです。
どれほど追い詰められようと「わたしを贖う方は生きておられる」(ヨブ19:25)
これ以外に、頼る道は、無かったのです。
長い間、何の改善もなかったけれど、命が・希望が繋がれている。
神の民の協力によって。祈りと支えによって。この待ち望む姿。
それは、「神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9:3)との言葉通りであります。
この人に、ペトロとヨハネは、本当に必要なものを与えます。
この男性に必要な物とは、何であったのでしょうか?
日毎の糧?それとも、自由に移動する事の出来る身体?
しかし、元気になったとしても、待っているのは、
「お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。」(創3:18)
彼に本当に必要であったのは、「イエスさまのお名前によって」
全ての恵みと祝福を神さまより受け取る事が赦された事だったのです。