使徒言行録 2章1-13節
高松教会 村上貴志
イエスさまが、ユダヤ人たちによって十字架にかけられた事(それは、人々が「イエスさまのことを妬んでいた」(マタイ27:18)から)であり、その邪な思いは、弟子たちにも向けられていました。
不法で、不誠実で、理不尽な「憎しみ」の感情。
弟子たちは、引きこもり祈るしかなかったのです。少数派でした。イエスさまが共にいてくれないと、敵対者たちの攻撃を恐れるような小さな存在でした。そのような状況に陥った時。願うしかないのです。
弟子たちが熱心に祈っていますと、神さまが現れる時の徴が与えられました。弱く不安な者であり、誰かに依存しないと、倒れるような者たちでした。
しかし、神さまは、その一人一人を召しだされた。
そして、直接のお言葉では無く、聖霊の働きを送られました。言葉は、曲解できます。拒む事・聞かなかった事にできます。しかし、心に語りかける言葉が、与えられたならば、やるべき事・与えられた使命、全てを理解する事が出来るのです。
マタイによる福音書 28章19・20節にある通り。
「伝えるべき事と、イエスさまがいつも共にいて下さる事」を、人の一番中心に据えて下さったのです。
それ故に、弟子たちは、あらゆる国の言葉で。神さまの事を知らない人たちに対しても、語り始めたのです。人の言葉でありながらも、聖霊の働きを受けた言葉でした。聞く人、全てに、習慣や信仰生活を越えて、届いたことでしょう。慈しみと恵みの言葉で、互いに愛する喜びを伝えました。
「酔っているようにも思えた」しつこい?同じ話の繰り返し? そんな風に見えるように。 弟子たちにとって、大切な事だったのです。 知ってもらいたかったのです。 神さまが、約束して与えて下さった事。 周りの人が、誤解する位。
弟子たちは、熱心に語ったという事です。