ヘブライ人への手紙 13章1~19節
高松教会 村上貴志
私たちの心の中には、「優しさ」が、「愛し合う力」が備わっています。
それは、どのくらいあるのでしょうか? その思いの数は、有限なのでしょうか?
で、有るならば、大事に使わないといけないですね。
そのように思っていると、ある時、神さまからの声が聞こえました。
「近いうちに、御使い(神さまが愛された人)が、あなたの所を訪問します。よろしく。」
あら、肝心な事をお話しになられていない。
「いつ?どこで?どんな御姿で?」分からない。
よろしくと言われても?私の心の中に有る、「優しさ」は、数が限られているから?
会う人会う人に、優しくしていたら、あっというまに、足りなくなってしまいます。
仲良しの人だけに「優しく」しようか?知らない人や嫌いな人は、関係ない人だから,…。
いや、それじゃあ、いけない。
創世記の18章や19章でアブラハムやロトが、旅人だと思ってもてなした人が、御使いだったように、
私も、やって来る人、みんなに「優しく」しよう。
心の中に、「優しさ」を貯め込むことが一番ではないのです。
もし、それを一番とするならば、私の中に、「イエスさま」が、おられる場所がなくなってしまうから。
心の中のイエスさまに聞いてみます。
「私の心の中の優しさを、周りの人たちみんなに分けてあげても良いですか?そうすると、イエスさまをもてなす事が出来なくなりますが?」
イエスさまは、こう答えられると思います。
「私が、あなたから優しさをもらうのではなく、私が、みんなの心に優しさを、配っているのだ」と。
この喜びを、知った人たちは、感謝しながら、讃美し、神さまを褒め称えるのです。
「主は、わたしの助け手。わたしは恐れない。」出会った全ての人が、神さまの愛された人なのです。
この小さなお祈りを、イエスさまの御名によっておささげします。アーメン。