ヘブライ人への手紙 9章23~28節
高松教会 村上貴志
イエスさまは、繰り返されるヒトの罪・全てを担って下さったのですが、…。思う訳です。どうして、神さまは、引き継がれるアダムの最初の罪を、贖って下さらなかったのだろうか?神さまから離れないように造って下さらなかったのだろうか? 神さまは、私たちを自由な者としてお造りになられました。それぞれが、神さまの事を覚え、神さまの愛を真に心の中心に置き、立ち帰って来るのを待っておられるのということです。息子が離れる罪を犯し続けながらも、待ち続ける放蕩息子の譬え話の父のように。全ての人が神さまの元に再び戻ってくることを願っておられるのです。その与えられた自由さゆえに。人は、不完全でありました。繰り返し、神さまから離れてしまう罪を犯してしまうのです。「彷徨った」理由。それは、「信仰の先に有る所」御国を望み見る事の出来なかったからかもしれません。 主が共にいて下さり、祝して下さる約束が与えられながら、信じずに、自らの手で恵みを手にいれようとして、神さまから離れ続けたのです。その罪。アダムの時代から、神の御子が贖い続けられるのであるならば、「度々くるしまねば。」救い主のお働きは、数えきれないもので有ったでしょう。 では、イエスさまの十字架は、最後の時だったのでしょうか?そう思われていました。この当時、もうすぐ終わりの時が来ると信じていたからです。「世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れて下さった」そう思っていたのです。でも、私たちの信仰は、未だ、不完全なままのように思えます。 いえ、違います。キリストの御業は、私たちに、希望を与えたのです。「イエスさまの十字架の贖いにより、御国に招かれている」と言う希望を。これを信じる者には、何の不安も無いのです。