ヘブライ人への手紙 8章1~13節
高松教会 村上貴志
優れた祭司とは?
「どのような役割を果たしたら良いか?」では無く、「もう既に、私たちの前におられる。それは、確実な出来事だ!」と、この手紙は語ります。
イエスさまは、私たちを神さまの元に導かれるために、教え、そして、自らのお体を贖いの献げものとして下さったのです。
そして、主がお建てになった幕屋・聖所で、いつも、私たちの事を、覚えて執り成しの祈りを捧げて下さっているのです。
その事は、弱い信仰を持つ私たちにとって、大きな喜びです。
なぜならば、私たちは、「この祈り、本当に、聞いていて下さっているのだろうか?私との距離は、遠い。」と、思う事が、多々あるからです。
自ら、神さまの前から逃げ出すように離れたにも関わらず、恵みが失われたならば、より頼むべき存在が、「人の力では無く全て神さまの祝福で有った事」を思い出し、再び願おうとする。
いえ、願わないと、生きていく事が出来ません。
私から、逃げ出しながらも、そこに戻ることしか方法が無いのです。
「放蕩息子」(ルカ15章)のように。
「父の所に行けば」その願い、希望を持つのです。
しかし、「受け入れていただけるかどうか?」は、自信が無い。
どなたか、取り次いで下さるお方が、おられないであろうか?
虫の良い話です。
「神さまの近くで、そして、私の隣で執り成して下さる方」を、求めている。
地上での仮初めの儀式。山でモーセが教えていただいたような、天にあるものの写しでは、無く。
真の執り成しを求めているのです。
神さまは、「民の行いによる義」の不完全さを知っておられ、新しい約束は、「思いの中に、私たちの心に」与えられたのです。
故に、「正しくあれ」そう、互いに語り合う必要は、無くなった事を教えます。
十字架の贖いによって。赦しを約束された新しい命。永遠の命が、与えられる事によって、私たちは救われたのです。