ヘブライ人への手紙 6章13~20節
高松教会 村上貴志
今日は、棕櫚の聖日。イエスさまは、「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と沢山の群衆に迎え入れられます。しかし、その声は、後に、「十字架につけろ」に変わってしまうのです。 イエスさまは、それらの事を全て御存知の上で、神さまが示された道を歩まれました。神さまの御計画は、変わらず地上に与えられたのです。それは、全ての約束が成就するためでありました。 アブラハムに対しての約束。神さまは、試されました。しかし、次の約束は、誰かと契約するのではなく、神さま御自身の定められた約束でした。神さまは、御自身以上の方がおられないので、「御自身にかけて誓われた」のです。「まことの真実は、神さまのみ。それを行われるのも、神さまのみ。」なのです。 アブラハムの信仰をご覧になられて、「変わらない約束」を、示されたのです。 それに対して、私たちの信仰は?常に忠実であるかと問われると、そうではありません。まことに自分勝手なのです。神さまの前に、自らを晒しながらも。でも、「常に相手を変えようと試みている私」が変わらなくてはならないのです。自分が主張を下げて退く事。世に生きる者にとって困難な事です。しかし、神さまは「神さまの御計画が地上に現れる事」に関しては、変えられないのであります。「主の道に相応しく歩め」と、語り続けられるのです。自信の無い私に「希望=イエス・キリスト」という、錨が与えられております。心の嵐を安定させてくださるお方が。「進むべき方向は、至聖所の垂れ幕の内側・神さまのおられる場所だ」と、引っ張り支えて下さる方がおられるのです。「完全にへりくだった姿として祈る事」へと導いて下さるのです。「罪なきお方、神さまから一度も離れた事の無いお方でありながらも、贖罪の祈りの手本を示して下さる」のです。