ヘブライ人への手紙 5章11~6章12節
高松教会 村上貴志
「希望」に対して、いつまでの「希望・期待」を持っていますか?「希望」というものは、限定的に思えるからです。では、「希望」が、本当に限定的かと言えば、、、。そうでない事も、私たちは、既に、知っております。週日の礼拝・祈祷会。家庭での祈り・聖書通読。既に、出会っているのであります。「ずっと・永遠に」それを知っているのです。 しかし、それを忘れさせてしまう日常がある。目の前にある希望を抱く暇も無く、慌ただしく過ごしている。伝えられている希望は、沢山あるのに。いえ、誰かに教える事が出来るくらい、その希望について知っているのに。今までに何度そのお方のお名前を呼び神さまに願った事か。数えきれないくらい、 いつも傍らにいて下さり、共に歩んでくださっているのに、忘れてしまっているのです。どのような時にも、共にいてくださるのに、別の所に自分を置こうとしまっている。「福音」は、良い実として、地上に届けられたものなのですが、私の心に届けられ受け取ろうとする瞬間。それを、拒否させる力が、私の心の中に働くのです。世の力が、そこに身を置く私の思いに働きかけ邪魔をするのです。「希望」は、人の中には、存在しないのです。世が妨げようとするから。知っていても、学んでいても、励んでいても、そこに、「神さまが私たちの事を愛して下さった事」を、思い浮かべる事が出来ないのならば、私の努力は、無に等しいのです。「希望」は、神さまからの祝福の中にのみ、存在するのです。それを知らされ、知りながらも、良い実を付けずにトゲを持つ者は、残念な事です。キリストが、その命を持って贖っ下さった十字架の業を虚しくしてしまうからです。神さまとの執り成しの完成を、甦りの命を持って示して下さった救いの御業を、忘れないように歩むだけなのです。