ヘブライ人への手紙4章14 ~ 5章10節
高松教会 村上貴志
聖書には、メルキゼデクという人物が出てきます。その名前は、「正義の王」という意味です。(創世記14:17-20・詩編110:1-7に記載があります)祭司であると同時に王であるということを、王の理想(メシヤ)としていることを明らかにするのです。 イエスさまは、不平不満や不機嫌によって神さまを試みようとする神さまを忘れた人々と共に居られます。そして、執り成しの祈りを献げて下さるのです。ダビデの系図、王の系図のなかにありながら、神さまと民を執り成す働きを成さるのです。大祭司アロンの系図とは異なる血筋でありましたが、天地が造られた時より神さまと共におられ、その天から地上に来られ、御使いたちよりも高められたお方でした。そして、大祭司として神さまに執り成しの祈りを献げる聖所に入れられ、そこを通過し越えられて、神さまと人とを隔てていた聖所の幕を突き破られ、父なる神さまの元に至られたのです。イエスさまの御業が現れた時、全ての人が、祈りによって神さまと結ばれたのです。生まれや資格は、問われない。正しい者の身では無く、相応しい者だけでもない。「受け入れる、受け入れない。信じない。」そのような選択は、無くなったのです。 既に、道は、示されているのです。 主は、「あらゆる点において、私たちと同様の試練に遭われた」その必要が有ったのでしょうか?人の躓きと呟きを知って下さるために、覚えて下さるために、同じ思いとなられるために、苦難を受けて下さったのです。それは、神さまが、イエスさまが、常に私に目を向けて下さっているということ。私たちもが、キリストの宮(王であり祭司であるキリストが、私たちの内に共におられる)として、他者に対して目を向け、へりくだりと、受け入れる思いをもって、歩みを進めたいと思うのです。