ヘブライ人への手紙3章7~19節
高松教会 村上貴志
「神さまの声を聞くために、今、備えの時を持ちなさい」と教えます。主の御声を聞いた時、「主よ、お話し下さい。僕は聞いております。」(サム上3:9)という信仰が、既に与えられているからです。 では、備える前の姿とは、どのようなものでしょうか?ここでは、「岩からほとばしる水」(出エ17章)を念頭に置いて語ります。神さまの御計画を、認めない言い訳する民の事を、神さまは御存知でありました。故に、40年もの間、長い間。「試された」のではなく、「信じる民へと変わる事を、待ってくださった」のです。知ろうとしない民。いつも心が迷っています。しかし、ヒトには、御言葉から引き離そうとする誘惑の声が聞こえるのです。だから、試練を受けた時、いつも反抗してしまいます。そのような小さな弱い者のために、御子は遣わされました。一人一人の思いの向きを、神さまの方へと変えて下さったのです。変えられた象徴として、信仰者の思いの中に、大きな変革が起きます。以前は、「神さまから試練を受け、神さまに反抗していた」者でしたが、変えられた者は、つぶやきを、試練の方向を自分へと変えるのです。変えられた信仰者は、「神さまの示してくださった道を、信じ、『必ず』与えられる事を待ち望む」のです。私の信じる力が、どこまで耐える事が出来るのだろうか?自らを試みるのです。古い自分の思いに反抗するのです。「誘惑という試みる存在」に、反抗するのです。とても、難しいように思えます。「日々、励まし合う」事が必要とされています。でも、難しい事ではありません。「祈っています」(主の守りを信じて、無に等しい私が祝されたように、あなたの上にも。)神さまを信じる声を私の中に求めるのです。出来ない私にも期待しておられる神さまの思いに励まされ、「祈っています」と、日々声掛け合い、励まし合いたいと思うのです。