ヘブライ人への手紙 2章5~18節
高松教会 村上貴志
へブル人への手紙は、神さまの御計画に対して告げ知らせます。それは、「私たちの目の前の出来事について」です。私たちは、15節に記されているように、「死の恐怖」の中、(それは、神さまとの交わりと恵み・祝福を失った状態を示します)、生きて行くために、地上での誘惑や困難・苦労に囚われ続けている状態、神さまから引き離そうとする力の支配の中での生活を送っているのです。働く、いえ、働かされている奴隷の状態とされているのです。「死の恐怖」の中を進む故に、ヒトは、窮屈な歩みを進める事となったのです。「窮屈」神さまから離れたヒトは、常に不完全な事に頼り、かつ、その枠の中で精一杯背伸びしなくては生きていけない存在となってしまいました。しかし、精一杯の努力をしても、虚しい世界にしか到達できないのです。ある意味、この世での戦いなのかもしれません。頑張れる間は、良いかもしれませんが、力、弱くなった時。私たちは、頭上を飛び交う危険な物から身を守るために、頭を低くして、窮屈に歩まないといけないのです。では、低くすることで救われるのか?「低くすればするほど、頭を下げ続けなくてはならなければいけない」世に取り込まれていく状況なのです。ヒトには、どうする事も出来ない。ゲッセマネで、イエスさまが、汗が血の滴るように地面に落ちるほど苦しみもだえながら祈られていた時、弟子たちは、悲しみの果てに眠っていた。(ルカ22章) 何もできず、悲しむだけ。そして、眠ってしまう。神さまと等しい方が、一つで在られるお方が、代わって、私たちの目の前で、働かれているのです。この福音を知った人は、眠り続ける事が出来るのでしょうか?この喜びを伝えたいと目覚めるのです。神さまの思われている事。全ての民との再会が、御国において果たされる事を願って。