ヨハネの手紙Ⅱ 1~13節
高松教会 村上貴志
ヨハネ教団の指導者である長老から、イエス・キリストの花婿と呼ばれることも有る「教会」へ。 「父なる神さまの大いなる憐みによって、イエス・キリストによる十字架の贖い・救いの業に与った人たちは、いつも、神さまとイエスさまと共にあります。神さまから離れた者たちを、呼び集めて下さった、いえ、引き戻して下さった感謝の歩みが備えられていることを覚えて欲しい」と伝えます。その引き戻された所には、創世記に記されているような「限りない恵みで満たされた喜びがある事」をも。 「その事を、しっかりと思いの内に抱いているのかどうか?」と、尋ねるのです。「教会に集う人たちは、忘れる事なく、感謝の祈りとしているのか?」と。 そして、私たちにも、伝えます。「励まされておりますか?」(私の答え)「いえ、もう十分に満たされております。養われております。神さまの溢れんばかりの恵みと導きに満たされております。十分です。満足しております。私の小さな器には、入りきらないくらいのものをいただいております。主の恵みで一杯です。」しかし、時に、「一杯に満たされているから、もう良い」そんな風に思うかも知れません。それは、「神さまからの恵みは、もうここまでで良いです」という、「無限の祝福を、私の方から受け入れるのを、止めてしまった状況」なのかもしれません。 「無限の祝福」神さまは、変わることなくいつまでも、私の事を愛して下さり、祝して下さっているのに、私の心の中からは「十分です。」無限の祝福から遠ざけるような、私を惑わす言葉が、私の中より聞こえるのです。 それこそ、反キリストの思いかもしれません。 主は、困難な状況から導かれるだけでなく、十分な恵みの中にいると思っている人をも導いて下さる。「初めからの勧め」に気付かされるのです。