ヨハネⅠ 2章18~27節
高松教会 村上貴志
「反キリスト」とは、イエスさまの代わりに「救いの業を成就する」と公言する人たちの事です。神さまの御意志と異なる思いです。その一派が終わりの時。神さまが全てを御判断される時に、「明らかにされる」と言うのです。終わりの時に今までは、潜伏していた者が選別されます。「救いを信じる者と、そうで無い者に。神の民か、地の民か」が、明らかにされるのです。突然、世の終わりが宣言されます。あるいは、間もなくと、天のラッパが鳴り響きます。驚くべきことに、教会で共に過ごした人たちの中から、その様な人が、現れるのです。
イエス・キリストの十字架の救いのみを信じた人は、その時に慌てる事なく、裁きの列に並ぼうとすることでしょう。しかし、それを信じきる事の出来ない人は、列に並ばずに他の救いを追い求める事になるのです。「イエスさま以上の業」誰も、神さまの思いを超える事などできないのです。出来ない事を求めた故に、教会から飛び出して行きました。
飛び出して行った人たちは、何を必要としたのでしょうか?教会に残った人は、イエス・キリストによる福音だけで、神さまの約束を信じました。なぜ、信じる事が出来たのか?いつも神さまに向かい合い祈りを捧げたからです。思いが研ぎ澄まされ聖霊によるしるしにも敏感に反応したのです。救いを求める者は、必ずイエスさまだけにたどり着く。結ばれるのです。神さまの約束を超えて、新しい業が人の手や思いによって開かれることは、有りません。既に、この救いの業は、完成されたのですから、イエスさまを通して、「神さまと結ばれる」以外は、有り得ないのです。「大きな事」ではなく、「小さな業」。それは、「小さい業」では、ありません。神さまの前で、友の前で、へりくだり、自らを小さくして、その良き業を神さまに献げる喜びの出来事なのです。