ヨハネによる福音書20章11~18節
高松教会 村上貴志
マリアは、従う以前の状況より、周りから一歩引いた思いを持っていた。
愛してくれる友を遠ざけてしまった故に、周りが信じた事を、受け入れることができなかった。
喜びに加わる事が出来なかった。
自分一人で確かめるしかなかったのです。
彼女自身で、墓を覗きこみます。
そこは、弟子たちが「見て、信じた」場所でした。
しかし、そのしるしを受け入れない彼女は、信じないのです。
それ故、墓の中に居た導き手である天使たちの姿・声をも、信じる事が出来なかった。
全てを、見失っていたのです。
傍らにいてくれる者が有りながらもマリアは、一人だったのです。
そのような状況は、「求めていた、愛するイエスさまの姿」さえも、隠してしまうのです。
主の言葉「婦人よ」愛と憐れみに満ち溢れた言葉であっても、その「愛」を受け取る事が出来なければ、その言葉は、虚しい響きとなりました。
それが、どこから来ているのかを知らなければ、伝わらないのです。
そして、次なる「愛」を求めて、「わたしの思う真実」を求めて、彷徨う事になるのです。
マリアは、「自分の名前」を呼んでくださった方を、ここに留めたいと願うのです。
イエスさまは、教えられます。
「あなたを救う業は、真実の愛は、父であり神である方より、送られてくる。」信じる事の出来ない者を、神さまは、捨て置かれるのではなく、「その弱さの赦しを得るために。その御独り子を、十字架につけられた。弱さと罪を代わって、担わせられた。そして、その赦しを甦りのキリストの姿によって告げ知らされた。」のです。
そこまでして下さって初めて、神さまから離れた者、罪の世界の中にある者は、気づくのです。
十字架の上の姿だけでは無く、救いの成就の姿をも示してくださり、私たちの思いと口に言葉を与えて下さるのです。
「わたしは主を見ました」と。