ヨハネによる福音書 17章20~16節
高松教会 村上貴志
イエスさまは、父なる神さまの元に戻られる前での祈りの中で、今まで共にいた弟子たちのためだけでは無く、これから、この教会に集められる人たちのためにも祈るのであります。
「主イエスは、まことのぶどうの木、私たちはその枝です」教会学校の頃、暗唱したこの聖句。
枝である私たちが、葉を付け・花を咲かせ・実を結ぶ。
キリストに救われた大いなる喜びを、周りの方々に告げ知らせ、その方々と繋がって行く。伝道と言う実をむすぶのです。
主の救いを宣べ伝える者としての栄光を現す事が出来るように、聖霊の励ましを送って下さる。
小さな器の私たちの言葉が、聞く方々の中に受け入れられるようにと、相手の心を開いてくださる。
熱心に神の国・救いの業を語る人には、救い主である子なるキリストと父なる神の力が、聖霊の導きによって、その場に働くのであります。
周りにおられる人たちにも。傍らに無関係で居られると思っている人にも、福音が、実を結ぶのです。
「キリストの弟子としての歩みを一つとして下さい。」イエスさまは、派遣の祈りを捧げられます。
小さい一つの幸いが、キリストの体である教会を通して、キリストの愛の業を通して、この地上に達する事を、神さまは、何よりの喜び・幸いとして下さっているのです。
この栄光のために。
一つ思いとなって、祈りを合せるように、イエスさまは、祈って下さるのです。
モーセに知らされた「神さまのお名前」は、救いと新しい祝福の場へ導かれた神の名前でした。
そして、ここで、イエスさまは、「全ての民を、愛され、神の国へと招かれた父なる愛の神」の御名を教えて下さり、御名を呼び求め、讃美する喜びを、教えて下さったのです。
この下された愛と、愛して下さった方を呼び求める祈りが、一つ所を通して地上に現されるのです。「一つとなるために」祈る所が、教会の姿なのです。