ヨハネによる福音書 17章6~19節
高松教会 村上貴志
創世記最初の出来事。
アダムの、カインの神よりの祝福を離れる選択。
それは、「礼拝」以外の事を、最も必要な事としたということです。
「善悪・自由」を手にする代わりに、平安を手放してしまったのです。
そして、その子孫であるイスラエルは、歩むに・進むに困難な民となってしまいました。
その民を、神は、御子であるイエスさまに、救いの業を託されたのです。
神の民が、キリストの民とされたのです。
「神さまからも、離れる自由」を求めたヒトは、救い主の十字架の業による贖いによって、「神さまと結ばれる民」へと、戻されたのです。
イエスさまは、祈りをもって、その執り成しを成就して下さいました。
弟子達は、神の思いを知る事を許されました。
故に、御言葉。
「神さまの前に集う平安を教えていただいた事による礼拝」を守ったのです。
その民のために、イエスさまは、更に祈り求められました。
その祈りより、弟子たちは、民は、神さまの憐れみ・愛を知ったのです。
一つである「神と御子であるキリストの交わり」に、加えていただいたのです。
その民が、集まり、イエスさまが教えて下さったように、「神さまとイエスさまが私たちを愛して下さったように、互いに愛し合う・思い合う・祈り合う」一つとしての歩みを送る場所。
「教会は、神さまのもの」なのです。
このことが、地上になるように、イエスさまは、祈って下さいました。
「父なる神さま。御名の内に、弟子たちを置いて、支えて下さい」と。
キリストは、教会が造られるために、この地上に来られたのです。
いえ、教会は、キリストの体。神の国の一部なのです。
だからこそ、一致した、一つ方向を。
神の国を、キリストの十字架の姿に向かって見続け、主の歩まれた道を、「教会は、神のもの。神の国。キリストの体」として、福音を宣べ伝えていくのです。