ヨハネによる福音書 17章1~5節
高松教会 村上貴志
教会の中では、時に、人の栄誉が語られる事が有ります。
「キリストと共に」そう告白しながら、「誰かに。人に従っている」状況が現れます。
それは、キリストの姿が、見えなくなってしまっていると言う事でしょうか?
見えない故に、見える人を褒め称えるというのでしょうか?
そのような自分を見つめ、「どのような思いが、信仰的な歩みと言えるのか、教えて欲しい」と私たちは、願うのです。
弟子たちの前から離れられるイエスさまは、十字架の出来事がどのような事を意味するかを明らかにされて、弟子たちへの「教師としての務め」を終えられました。
それぞれの弟子たちを見つめていた視線を上げられ、天におられる父なる神さまに向けられるのです。
地上に残した弟子たちが、歩み始めるにあたっての、大祭司としての執り成しの祈りを献げられました。
キリストの十字架による救いによって、人は、神さまの元へと再び導かれたのです。
神さまの御顔を拝する事が許されたのです。
祈る事、語りかける事が許されたのです。
これこそが、ヒトの本来の歩みであります。
神さまと共に。「永遠のいのち」に与る事なのです。
イエスさまは、まだ見ていない弟子たちに、神さまの御意志を信じ切る御自身の姿を通して、近づく神の国を示されたのです。
「見よ!これこそが、神の御業である」キリストと神さまの思いも、業も同じ。
歩みの中で、神さまの姿を知らなかった私たちに、神さまの御意志に従いきるイエスさまのキリストとしての姿を通して、神さまの御姿が、私たちの前に現れるのです。
弟子たちの事を、願われたイエスさまの執り成しの祈り。
ここに、神さまの栄光とキリストの栄光と地上での栄光、全てが現される事となったのです。