ヨハネによる福音書15章18~27節
村上貴志
神さまが遣わされた救い主による良き業「十字架の福音」を宣べ伝えようとする人が迫害される。
それは、神の民の共同体、イスラエル・エルサレムの出来事です。
それは、神さまから、遠く離れるような行為です。
神さまは、この「救い主を受け入れることができない、小さなイスラエル・神の民」を、憐れんでくださいました。
神さまから離れている民がいた時、イエスさまを送られ、その歩みより民の罪を浮かび上がらせ、それを掬い取って下さった。
罪の世界から救い上げられた。贖われた。
イエスさまの命を身代金として、差し出して下さることによって、神さまの国に招かれる全ての民への喜びが、現されたのです。
イエスさまは、その内に有る弟子たちに、これから福音を伝えていく弟子たちに、あらかじめ、この大きな祝福の業「迫害」を示されるのであります。
「伝えて行く困難は、私と同じものだ。
それを、苦難と言うのだろうか?」そう問いかけられます。
神さまの御意志を厭う民、神さまを知らない民からで有れば致し方ない事であるけれども、主に選ばれ従う者たちが、そうするのです。驚きです。
神さまの選ばれたユダヤの民が、背いたのです。
そのような迫害の事実を知った弟子たちは、どうするのでしょうか。
その苦難から逃れるために。
弟子たちの示されている道は、二つです。
①逃れるために、報いを持って相手に挑みかかる事。
②主と同じように、十字架を背負い、愛をもって共に歩む事。
私たちの歩む道にも離反と祝福が、一つ所に示されています。どちらを進みましょうか。
私たちは、抱える思いの大変さをも擁護して下さる聖霊と共に、進ませていただくだけなのです。
この歩みが、私たちの証しなのです。