イザヤ書 53章1~12節
高松教会 村上貴志
イザヤ書53章の言葉。
ここには、「苦難の僕」という姿の救い主が記されております。
主がイスラエルをお救いになるときに、一人の「しもべ」を選ばれ、この方によって神の民を救われ、罪の縄目より解放されるという事が、預言されているのです。
その方法が、「前代未聞の出来事だ」と、53章の冒頭で語られます。
神の民が神の民であるためには、神さまからの律法・約束を守り、正しく生き続ける事が、その方法であると思っていたのに、ここでは、「そうではない」と、語られるからです。
人の努力かたや精進では無く、「神さまが送られた一人の方」によってなされる。
それも、天の軍勢を背景とした圧倒的な力でなされるのではなく、「仕える者・へりくだる者、時に忌み嫌われる者」という、僕の姿をとって来られると言うのです。
この方の、「神の国についての証し」は、受け止められるが続くことが有りませんでした。
忌み嫌われるように排除されました。
熱狂的に従っていた民衆は、敵対者たちの扇動でいとも簡単に思いを変え、「十字架に架けろ」と叫ぶ事を予見しております。
理不尽です。その人たちに仕えて、ののしられ、打たれていく。
しかし、この災いを、神さまを見つめていない・神さまからの喜びを受け取る事の出来ない人々を癒すために「僕」は、その事を受けてくださると言うのです。
「僕」は、人の弱さをその内側よりあぶり出し、代わりにその重荷を背負われ、打たれてくださるのです。
そして、その罪を贖われるのです。相応しくないもの者に対しても。
神さまが、「僕の業を持って、そうしてあげたいのだ」そう語られたのです。
人の内にある毒の実・背きの実は、僕に摘み取られたゆえに、後の実りは、感謝と讃美と祈りとなるのです。
私たちは、「告げられた約束」を信じて、その「業」を見上げるだけなのです。