創世記1章1-3節 マルコ伝16章5~15節
洛雲海(ナグネ・大山和至)牧師
愛は、国を超えて来ます。
愛は、民族を超えて、言葉を超えてやってきます。
愛によって、キリストの交わりも深められてきます。
まことの愛は、かつて御子キリストを通してこの世に来られ、今は教会を通して聖霊によって進み続けています。
それによって、土の器にしか過ぎないわたくしたちが、愛なる神さまから命の息を吹き込んでいただいて日々新たに生きる者とされています。
聖霊によって生かされている私たちの交わりにおいて決定的な事は、出会いです。
決定的な出会いは、人を変えます。
「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」
それは、墓の中に響き渡った言葉でした。
死んだイエスさまの復活宣言なのです。
神さまは、新しい創造を開始されました。
実は、私たちが、歩み続けているこの世界は、もう「そのような世界」なのです。
「死」は、通過点。終わりではありません。
「14節」ここには、「人間の変わらざる不信仰な現実」が、繰り返し記されています。
「この悲しい現実が、三度も重ねて記されています。」ここが、重要です。
しかし、良く読めば私たちは、次の事にも気付かされます。
この「信じなかった」と言う言葉と共に、イエスさまが必ず現れておられる。
イエスさまとの出会いこそが、決定的な事なのです。
しかし、その前には、まず先に福音を伝える人が必ず居ました。
愛の霊によってその導きが与えられた。
すなわち、聖霊によってしか、「死人の復活」などというこの世の常識が打ち破られる事は有りません。
そんな事を信じられるとは、それこそまさに「神さまの御業」です。
教会は、その様に「代々、告白してきた」のです。
この出来事は、これまでも起こってきましたし、今も、起こり続けています。
昨日まで信じていなかったあの人が、今日は信じるようになるのです。聖霊の導きによるのです。