ヨハネによる福音書 12章36b~43節
高松教会 村上貴志
神さまから召された預言者イザヤは、語りました。
「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」イザヤ書53章1節の引用です。
信じた人たちは、「イエスさまが行った多くのしるしを通してさえ、愛と哀れみのゆえに差し出された神さまの御手がそこにあることを悟らなかった」のです。
どうしてでしょうか?それが、人の罪なのでしょうか。
いえ、そうでは、有りません。
ここでは、イザヤが神さまに召された時に与えられた言葉を引用してその事を語ります。
「神さまが、民の目を見えなくし、その心をかたくなにされた」罪の重荷は、人の手では取り去る事が出来ないのです。
神さまは、その事を、人々にお示しになられました。
受け入れた人もおりましたが、周りの民は、それを認める事は無かった。
許さなかった。イスラエルは、拒否する民・頑なな民で有ったゆえに。
「目で見る事なく、心で悟ることなく、立ち帰る事はなかった。イスラエルの力で、癒される事は、無かった」のです。
人の力では、赦される事も、癒される事も、導かれる事も、正しく進むこともできないのです。
神さまは、その事ゆえに、イエスさまの十字架の業をお示しになられて、条件無しに全ての民に救いを与えて下さったのです。
憐れみと救いの事実。この喜びを私たちは、伝えたいと思うのです。
イザヤの時代やイエスさまの時代。
頑なな人たちを前にしても、神の御業のための働きがあったように、教会も、主の弟子である私たちも、それに倣いたいと思うのです。
掟を守り続けた、神さまに認められた者が、「あなたも、そうあるように」と、「人の誉れ」を語るのではなく、取るに足らない者をも用いて下さる「神さまの誉れ」が、愛する隣り人の上にも有る喜びを伝えていきたいと思うのです。