ヨハネよる福音書 8章48~59節
高松教会 村上 貴志
イエスさまとユダヤ人たちの論争。
その理由の一つが、ユダヤ人自身の信仰の位置で有ります。
「信仰にランクが有るのかどうか?順位が有るのかどうか?」と、問われますと、有りません。
有るのは、「信じるか、信じないか」です。
ユダヤ人は、熱心に信じておりました。
どのくらい熱心であったかというと、「イエスさまが、サマリヤ人(正しい礼拝を守らない)で悪霊に取りつかれている(神さまに反対する勢力の人)」と、はっきりと言い切るくらいです。
「あいつは、そのような存在だ!」そう決めつけたのです。それは、…。
イエスさまに傷が有ったからでは有りません。
イエスさまは、何の罪も、神さまから離れる事も無く、歩まれていたのです。そして、神の御業を現された。
しかし、認めたくなかった。
神さまに忠実に仕えて歩んできた自分たちが出来ない恵みを、他者が行うことを。
どうしてかというと、彼らが、自分の栄光を求めていたからです。
「神さま」という事を前面に押し出しながら、その実、その栄光を自分の手柄としたいからです。
自分たちの権威をみとめないのならば、…。
アブラハムの名によって、糾弾する。
自分たちでは、太刀打ちできなかったならば、アブラハムや預言者たちの名によって、糾弾するのです。
その様な人たちに、イエスさまが突きつけた事は、ヨハネの黙示録(3章)で、ラオデキアの教会に対して語られた幻のような事だと思うのです。
「ユダヤ人たちを口から吐き出そうとしている」熱い信仰を持ちながらも、自分と言う冷たい思いを混ぜると、熱くも無く冷たくも無いものになってしまうのです。
イエスさまは、「私、個人の思いは無い」と、語られます。
「全て。神さまの栄光」と、語られたのです。
父なる神を重んじるだけであります。御子の言葉を守る事こそが、父なる神を重んじることなのです。