ヨハネよる福音書 8章39~47節
高松教会 村上貴志
聖書の歴史の中では、異なる思いを抱いている人たちは、度々、集い、論争しております。
今回の論争は、「神から聞いた真理」についてです。
神さまから、聞いたことなのでそれは、同じではないかと思うのですが、なんと、異なっているようです。
昔、聞いたことを大事に伝えてきたのですが、問題は、「伝え聞いたことが、大事なのか?今、導かれて教えられた事が、大事なのか?」でした。ユダヤの歴史の中で、大切な「神さまから聞いた真理」が、有りました。 「正しく伝えられなければ」
イエスさまは、まさにその事を語られています。
伝え聞いた事が、人の感情で変わっているのです。
ユダヤの民が、アブラハムの子孫だと、言うなら「どうして、アブラハムと同じ事をしないのであろうか?」と、尋ねられたのです。
ユダヤ人たちは、アブラハムの子孫であるという誇りを強く持ちながらも、従うどころか、むしろ強く否定したのです。
それは、父なる神さまに従う民の姿ではなく、異なる父に、神さまから離れさせようとする存在に導かれた行動だと語ったのです。
神さまは、全ての民を愛されて、人を育まれた。
その中で、伝えられた歴史の一つが、ユダヤの歴史で有ったのですが、ユダヤ人は、「選ばれた」と、思ってしまった。
他の人たちの事を、その人たちも神さまが作られていた事を忘れてしまった。聞き従う姿も、選ばれた人たちだけからとしてしまった。
神さまが、あらゆる方法で、神の真理を伝えようとなさったのに、受け入れなかったのです。
イエスさまは、マタイ22章で「招かれた人たちは、ふさわしくなかった。そこで、通りにいた人、見かけた人は善人も悪人も皆集めてきた。」
互いに知り、互いに愛し合う者。主の教えを、知って集まった人が、イエスさまの元に信じる民として残るのです。